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2011.07.23

隠国「熊野」で想う死生観

先月は多忙を極めていたが、さなか仕事から逃げるように
紀伊半島の熊野を旅した。

熊野に行ってみたいと思ったのはいつの日からだろう。
それは「生」と「死」というものを意識しはじめたころに起因するように思う。

神が降臨したというその地に身を置いてみたら、
自分の中の何かが開かれるのではないか・・・そんな気がしていた。

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東京から和歌山県の新宮までは、およそ6時間。
梅雨空の折、南紀電鉄ワイドビューで名古屋を経由し、紀伊半島を南下した。


熊野の「熊」は、もともと「隈」という字が語源であり、
隠国(こもりく)、すなわち死者の魂が集まる場所と考えられていたという。


紀州の文士、中上健次は次のように書いている。

 那智の青岸渡寺と大社は鳥葬、海辺にある補陀洛山寺は水葬、
 新宮の神倉は鳥葬、王子、阿須賀、速玉は水葬の死体が集まるところだった。

 その町は、死んだ者の魂と生きている者の魂の、行き交うところであった。
                                   (中上健次『浮島』より)



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神倉神社
その場所に達するためには、鎌倉作りの石段を五百三十八段も登らなくてはならない。
写真でもわかるよにかなり傾斜がキツイ。

頂上には、ご神体のゴトビキ岩にいまにもつぶされそうな社が佇む。

熊野三山の主神たちは、まずこの地この場所に降臨したというが、
確かにそんな趣が漂う。

ここから眺める景観は、梅雨空でも十分映えていた。

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神倉神社にほど近い場所にある、熊野速玉大社
神倉神社の古宮(元宮)に対して、速玉大社は新宮(にいみや)という。
新宮(しんぐう)市、もここに由来している。


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「未来へ繋ぐ 日本の祈り」。
今こそ日本救いたいと願う、熱い想いが伝わってくるようだ。

この日は、熊野本宮にほど近い川湯温泉に宿をとった。
夜は、翌日の熊野古道への無事を祈り御神酒をたっぷりいただいた(笑)
旅の疲れを癒す美酒であった。

翌日。
早朝8時!?に起きて発心門王子から本宮を目指す。

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発心門王子までは、旅館から送迎バスが出ているが路線バスも運行されている。

熊野を目指すルートは多々あるが、
ここは中辺路(なかへち)、熊野本宮大社から7kmほど手前にあたる。


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本宮へ至る熊野古道は、聖地熊野三山を目指す信仰の道。

平安から江戸時代にかけて、蟻の熊野参りといわれるほど多くの人が参詣したという。

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ちなみに熊野参詣を始めたのは、花山天皇(968-1008)。
最も多く参詣した天皇は後白河天皇(1127-1192)で34回。


湿度が大変高く、古道の随所で壁は苔むして幾何学模様をつくっていた。

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昔の人々は何を求めて遠路、厳し道程を旅したのだろうか。

かつて熊野詣でをすると、亡くなった人に出会うとも伝えられていた。
祖父母の魂と出会うとも・・・

そこには古代人の「死生観」があった。

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古道の途中、茶屋で温泉コーヒーなるものをいただいた。

なめらかな舌ざわりとほろ苦さの絶妙なバランスがいい。
ドトール並みの価格で、湯の峰温泉の長寿の湯でいれたコーヒーが味わえる。
小栗判官の物語を知っていれば、きっとお得感は増大するだろう。

古道をしばらく行くと見晴し台に出る。
大斎原(おおゆのはら)の大鳥居が遠くに見えてくる。

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熊野本宮大社は、この高台を下ればすぐ。

現在、熊野古道は社の裏手に出るため、正面へまわったほうが気持ちがいい。

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多く人が祈りを捧げる本宮大社。
今回は、震災被害からの復興を一番に祈願した。

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かつて社は熊野川の中洲にあったという。
ところが、明治22年に森林伐採によって流されてしまったのだという。

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上の写真は、水害前の中洲にあった社と、
熊野十二所権現の神殿が横一列に建ち並んでいた当時の様子。


最近、速玉大社のご神木が知らず切り倒される事件があったと報じられた。
徐々に自然への意識が薄れてきていることの現れのようにも感じる。

日本の古代信仰である神道は、自然への畏れ敬いがその根幹を成している。
現代は、神道にとってまさに憂うべき危機的状況とも見えてくる。

この日は午後から天候が荒れたため、
紀伊勝浦まで移動して翌日の熊野那智大社参詣に備える事にした。



翌朝。
この旅初めての晴天。夏の陽射し

いよいよ熊野三山の最後、那智大社へと向かう。
大門坂から、那智大社に向かって再び熊野古道を歩くことにした。

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ここから四百七十六段の石段がつづく。

ご神木が居並ぶ那智大社への道。
樹齢数百年の樹々囲まれた道は、神秘的な異空間であった。

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鳥居まえの最後の階段は、まさに参拝者へのトドメ。
ここを登りきれば那智大社だ。

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石段と陽射しで背中はぐっしょりと汗でぬれた。
それでも満足感が得られるのは、この地を訪れたものしかわからない。

那智大社の境内には、これまた美しい大樹があった。

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これまでのどの樹よりも美しく、存在感がある。
思わず手をあわせてしまった。

青岸渡寺(せいがんとじ)を経由して、いよいよご神体の那智大滝へと向かう。

徐々に滝の音が大きくなり、期待感が高まってゆく。

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しばらく歩くと、眼前に巨大な滝が現れる。
水が轟音とともに落ち、水しぶきがほとばしっている。

このときばかりは、前日までの雨に少し感謝した。



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ところで、
以前訪れた京都高雄の神護寺を再興した文覚上人は、この那智の滝にうたれ
厳しい修行を積んだというから尋常ではない。


昔、平安・中世のころ、人は自然と密接な関係をもっていた。
あがなう事の出来ない自然は神とみなし、共存することで生きていた。

「生」も「死」も自然のなかにあった。
だからこそ、死後の魂が行く先があると信じ、そして熊野信仰が生まれた。


1000年の後、
文明によって人は自然と対峙することで安寧な生活を手に入れている。

人の幸せが、豊かな物質に囲まれることと思いはじめたのはいつの日か。
裕福であることとは多くの物質に囲まれることだろうか。
それとも魂と精神の昇華なのだろうか。

そのこたえが、生と死の意味を変えていくように思う。


死後は浄土が待つのか、地獄があるのか誰もわからない。
ただ「死」とはひとつの通過点であり、その意味こそが重要ではないのだろうか。


先日、70歳になる大先輩が次のように語っていたのを思い出す。

「年をとったからといって、学びはじめるのに遅い事はないと思います。
 死んだ後も、学び続けることが出来るかもしれませんから」

その気持ちは、すでに死の先を見ていた。

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